昭和50年04月22日 朝の御理解
御理解 第27節
「昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど、人に悪い事をせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心して、おかげを受けるのとは別ものぞ。」
御縁を頂いてお参りをしておる。中にはどんな人でもある。世間では爪弾きをされる様な人もある。行いの悪い人もある。それでも矢張りおかげを受ける所を見ると、お願いをしておかげを受けるという事は、人の良いのと悪いのとは別ものと云われる事がはっきり分かる。それでは信心の値打ちはない。信心をさせて頂いて、段々めぐりのお取り払いも頂き、人間も真の人を目指させて貰うという願いに立って、真の信心をさせて頂くというところに信心があるのです。
ですから信心を頂いて、ただ自分が改まろうとも清まろうとも、本気で教えを頂こうともしないで、おかげを受けておるとするなら、それは信心しておるからと云うて、そこの久保山さんじゃないけれども、誇りに思うておりますと言われる事にはなって来ない。なぜ誇りに思うかと云うと、今まで知らなかった人間と神様の関わり合い。それが解って来る。同時に教へを受けると言う事が人間の最高の生き方、本当の生き方を身に付けさせて頂く所から、心に信心の稽古をさせて頂く者の喜びがある。
その喜びが信心をさせていただいておる事に対して、ほこりを感ずると言う事になるのじゃないでしょうか。信心をさせて頂いておる事がきはずかしい。世間にもあんまり知られん方が良いというのはです。おかげだけをこっそり頂いて、人からとやこう言われておる様なじんぶつだと思います。だからこっそりとか、人前をはばかると言う事になるのじゃないでしょうか。自分が正々堂々と、真の生き方をさせてもらうと言う事、真の人を目指すと言う事。
天地と私共人間との関わり合いを分からせて頂く最高の学問を身に着けておるんだという様な生き方になる時に、本当にお道の信心を頂いておると言う事に、誇りを感じられる様になる。でなからなければ、信心を頂いて行く値打ちはありません。参ってみなさい、おかげ頂きますよだけでは可笑しい恥ずかしい。だからそれでも終始する様な事ではいけんのです。だから自分自身を、本気で信心を頂こうと云う願いに立たなければならない。そこから信心の値打ち、おかげは正直者でなくても受けられる。
そういう信心に甘んじておったら、信心は最低だと云わねばならん。信心をさせて頂けば、段々おかげを受けて来ると言う事は、真の道が分って、真の道を踏ませて貰う。真の信心をさせて貰うから、真のおかげ真のおかげと言うのは、願ったからおかげを頂くという様なおかげではない。それこそ真の道に適うから、真のおかげを受けるのである。そういうおかげを受けなければならんと思う。
昨日福岡から最近、時々月次祭だけ位にお参りをなさる方がある。御主人と云うのが異常な程短気な人らしい。何かと云うと叩く踏んだり蹴ったりされる。二言目には「出て行け」と、いう風に云われる。二、三日前に出て行けと言われるので出ておられて、これからの前後策についてお伺いしたい、お願いをしたいというて参って見えられたんです。段々、お話を頂けば頂く程、親先生の言われる事が有難いし。
素晴らしい事を段々分かってくる。それを夫婦の間にも生かして、おかげを頂いて行かれるけれども、御主人の性格的な事がおかげにならん。昨日お願いに見えましたから、その事をお願いさせて貰いよりましたら、楽器ですねここでも使っております、笙を頂くのです。笙篳篥と申しましょう。笙篳篥いうのは小さい短い笛です。普通笛が長い笙というのは、何本も竹を集めてある楽器です。次に頂く事が大きな大蛇がですね、今にも人を呑み込む様な風で、大きな口を開けてる。
けれどもその大蛇がね、舌をペロペロペロ出しよる所を頂いた。今にも呑み込まれそうにしておるけれども、その大蛇がペロペロと舌を出しておるという事。これは私はよくは知りませんけれども、蛇が鎌首を持ち上げて舌を出す時には、助けてくれと言っておる時だそうですね。いうならば大変なめぐり大変な、そうした人の話を聞いておって、本当に、ほんな事だろうかと言う様な感じがするんですけども
。やはりめぐりのせいである。しかも奥さんを踏んだり蹴ったりし、二言目には出て行けと云う様な事を言わなければならない主人の身にもなってみなければいけないというのです。本当にそういう様な夫婦の中に、叩いたり蹴ったり二言目には出て行けと云わなければならない主人も大変苦しかろう。それが病的であったにしろ矢張り苦しいのです。いうならば奥さんに助けを求めて居られる時です。と云うて話をさせて頂いたら、本当にそうかも知れませんと云うて、涙をポロポロ流されました。
普通の人なら一本の竹で良い音色が出るところだけれども、良い音色の出来れる稽古をするのだけれども。あなたの場合は一本二本じゃない、何本もの竹を集めなければ良い音色が出ない。笙の様なものだ。竹という事は素直と言う事でしょうか。純真と言う事でしょうかそういう風に、ここでは御理解を頂きますね。そういう限りない純真さ。例えば主人が自分を叩く時には、叩かねばならん程の苦しみを持っておる人だと言う事を思う時にです。叩いて心が晴れるなら、叩かれもしようという位な。
この人もそれだけ苦しいんだという様な頂き方をさせて頂いたら、又帰らせて頂かれるのが本当じゃないでしょうかねと申しましたら、今日帰らせて頂きますから、どうぞお繰り合せ頂く様にというてお願いをして帰られました。信心にはどこまでも純真、そして素直心というものを本当なものにしてゆく以外にはない。そういう難儀に直面しながらこれは夫婦喧嘩のことだけじゃありません、様々な問題に直面する度に、只そこをおかげを受けたというのではなくて。
自分の心が豊かになり自分の心が広うなり、自分の心が清められ、自分の心があゝそうだったと解らせて貰う所から、改まりが出来る。そこから頂くおかげを、本当なおかげという風に思うです。そういう行き方をさせて頂くならば、久保山さんじゃなくても、信心を愈々頂いておる事に、誇りを持たせて頂けれると言う事。あそこは信心しござる。毎日、参りござるばってん、商品がどこのとよりも高い。
そして品物はあんまり良くない。そういうのを、どうぞ売れますように、売れます様にと云うて願うから、売れもしましょうけれども。それでは、本当のおかげになって行かんです。信心をさせて頂いて、商売をするなら、どこよりも実意丁寧だけでなくて、品物も良い値段も安い。人柄も善いからあそこで買わせて貰うたら、気持ちも良いという様なおかげを頂いて行く。成程正直者であろうか不正直者であろうか、神に信心しておかげを受けると言う事は、ここでのおかげは影の様なものですね。
真のおかげと言うのは、お徳を受けて行くとか、力を受けて行くと言う事でしょうけれども。ここでは不正直者でも、願えばおかげを受けるというのですから、只の程度の低いというか、低級なおかげと言うべきでしょう。そういうおかげを、願えば頂くからその信心で終始すると言った様な事であってはならない。人から神様仏様と言われる様な人でも、次々難儀な事が起こって来ると、どうした事であろうかというのは、ただ難儀を難儀として受けておるから難儀が続くのである。
信心させて頂いて、本当の事がわかったらその難儀を、例えば今の大蛇の話しじゃないですけれども怖い。今にも呑み込まれそうにあるけれども、ペロペロと大蛇が舌を出しておるという事は、助けを求めておる時だと言う事を分からせて貰うと、相手も辛いだろう、相手も苦しみだと言う事が分かってきて、その受方が真の道に適うのです。本当な事に適う。そしてこれは後々でわからせて頂く事ですけれども、あゝいう難儀な問題で、出ろうか、引こうかと言う様な事が続いたけれども。
そこを辛抱しぬいたらこういうおかげを頂いたと言う事実の話も知っておる、二人のお道の先生方の話をさせて頂いた事でした。そしてお徳を受けられ、結局神様がお徳を下さろうとする働き意外にはなかったと言う事になるのです。神様が力を下さろうとする事以外にはなかったと言う事になるのです。だから辛抱し抜く力を信心によって鍛えて行き、真の道を本当に分からせて貰い、本気で魂の清まりを願わせて貰い、信心は日々の改まりが第一、信心は本心の珠を研くものぞと言う様な。
信心の本当な所に心付かせて頂いて、そこの所の稽古をして行かなければ、信心の稽古という事にもならなければ、真のおかげと言う事にもならんのです。只お参りをするおかげを頂く。それは正直者であろうが不正直者であろうが、おかげを受けると言う事は別物とおっしゃるから、そういう意味でのおかげから、私共は本当のおかげの頂けれる道を歩かなければならない。そういう道を体得して行かなければならない。ここではそういう深い意味の事を教えておられる訳ではないですけれども。
只あの人はあゝいう悪い事をしたっちゃ信心をしござるという様な場合です。人から後ろ指を指される様な人でも、おかげを受けるから信心が止められんのです。だからそれではいけない。世の中では、あの人の様な正直な人立派な人がです。人格的にも立派だと云う様な人なんか、いうなら清貧に甘んじておられるという様な人があります。それこそ祈らずとも神は守らんと言う様な、真の道に適いなば、祈らんでも神様が守って下さるだろうと云う様な考え方は、お道の信心には当てはまらないと云う事です。
絶対神様は願わなければ縋らなければ、神様との交流が始まらん。そこで神様は不正直者にでもおかげを下さる事は、そういう道を分からせたいと云う。所謂願う氏子におかげを授けと云うところであろうと思う。理解申して聞かせと仰る。理解を頂かせて貰うて、その御理解に基づいた行き方が出来る。そういう行き方を私はお道の信心だという風な所をわかって頂きたいと思うです。
どうぞ。